昭和46年3月7日  佐田家霊祭



  今日しみじみにあの、お祭を奉仕させて頂いてから、思わして頂いたことは、え~、その立冬で、、その、え~(?)、例えば生まれ変って、生まれ変ってくると、その人間は何回も何回も常に生まれ変わって、え~しかもそれは人間ではなくて、それこそあらゆるものに生まれ変わって(?)、ね、(?)の牛にも、犬猫にまで生まれ変わっておる、え~そうして繰り返し繰り返し、え~、そういう修行をせなければならないといったようなことが、私はやっぱそういうことは本当のことかもしれないなと今日は実感いたしました、ね、それは何故かと言うと、あのお~、生まれ変わり、言わば死に変わりですね、私はその、本当の、例え分からして頂いて、あの世での言うならば営業の助かり、というものが、え~、願われるからだろうとこう思います、ね、ですから私は結局この世というところはね、この世というところは何時まで続くか分からないほどしのあの世での、幸せを頂くことのための修行場だと、頂くことが一番間違いがないようです、ね、ですから、いかにならこの世で私共がね、本気で魂の清まりを願っておかなければならないかと、本気で自分自身の心が助かっておらなければならないかと、ね、そのことに精進しとかなければならないかと、ね、助かっておくということがです、私は様々な事に生まれ変ったんですむおかげを頂けるのだといったようなことを今日は、そのことを実感として感じますね、お互いがこの世に生を受けてきておるということは、人間として生まれてきておるということは、ね、どういうわけにこの世に人間として私共は生まれてきたかと言うとね、私共が本気で、いわゆる、魂の清まりというものを願い、そこに気付かせてもろうて本気で清まって行く、ね、(?)、ということは、本気で私共がこの世で助かっておくということです、ね、ならこの世で助かっておくということはどういうことかと言うと、ね、いわゆる、う~、ね、なるほど暑いもありゃ寒いもありますけれども、暑い中にも有り難いことが分かる、寒い中にも有り難いなとお礼が申しれれる心、どのような中にでも、有り難いなぁと勿体無いなぁという生活が出来れるということ、これは魂の清まりを頂いて、言うならば御神意ですね、天地の心というものか、そういう心が分からしてもろうて、天地の心に沿うた生活沿うた生き方、そこからね私は、心が清まり、魂が清まらなければ、あ~、神様の御心が分かっても、分かってそれを、を、心を心としての生き方生活ということだけです、我情我欲でいっぱいで、例えばこの世を終わったといたしますか、沢山な財産も、沢山な、あ~物も、いわゆる家倉財産を残すといたしますか、ね、それこそ人間のある地位についたといたしますか、けれどもその名誉やら地位やら家倉財産やらというものがどのようにたわいないものか、どのように空しいものかということをです、私はもう一時でも早う分からしてもろうこと、信心とはね、そして本気でこの世でも本当に助かり。
  最近、ある方がお参りをしてみえられましてね、お母さんが信心になる、嫁さんが信心になる、けども嫁さんのこの妊娠のおかげを頂いて、えそのおかげを頂いたんですけども、その上に、そこにあの、お~あの、のお祝いに、お多福さんの面とね夜叉の面とを頂いたっち飾りに、それで嫁が申しますことは「これはもう胎教ということをよく言われるから、この夜叉の面をとりましょう」とこう言う、ね、「(?)ああいう恐ろしい子供が生まれたら大変だ」とこう言う、「それでお多福さんの面だけを人形にしたらよかろう」とお母さんが言われたらしい、そん時に私( ? )頂くのは、なるほどあの夜叉の面のような恐いような、はぁあんな恐いようなと、思うことは確かに胎教として心の中に、響くかもしれんね、これは医学の上でも胎教ということを言われるんですから、それで○○さんあんたがあの夜叉の面を見るたんべんにね、一つ金光様にいきんなってくれと言う、ね、あの夜叉の面を、を、見ながらね、どうぞ私の心の中にああいう恐ろしい心がありはしないだろうか、ね、なれば私の心、私が改まろう、夜叉の面を見るたんべんに自分の心の改まっていく美しゅうなっていく清まっていくことを願うたらあの夜叉の面は、素晴らしい子供へ対する胎教と言うなら、その方が素晴らしいことじゃないだろうかと言うて、話したと言われる、本当にそうだなと私は思う、ね、例えば頂き方がですね、そういう嫌な物を見せて頂いても恐い物を見せて頂いても、恐いとは感じていない、嫌な物見ても嫌と感じていない、それをむしろ有り難いというものに消化して行こうとする精進(?)っていうこと、私清まって行くというのはそういうことだと思うんです、ね。
  私、もう、お、霊祭っ、昨日も、お、佐田さん達のご信者友達が、菊栄会の会員でありますが、え~東さんっちいうところのお父さんの五年の式年祭を仕えさして頂いて、おかげ頂いたんですけれども、あのそこで霊祭を仕えるたんべんに思わせて頂くことはもう、もう有り難い、私は今日も御祈念中に、もう本当に声が出るほど有り難いと思ったんです、というのはね、私という人間はもう何と言う有り難い事になって来たのであろうかと、この世で様々な難儀な事を願っておいでです、もう医者が助からんという病人が助かっていく、ね、どうにも出けないという道の人が、あ~おかげを頂いて教えを頂いて、これが素晴らしい道に広がっていく、というように難儀な氏子が助かっていくということだけではなくて、それこそその縁に繋がる、言わばあの世の世界におられる方達までがね、助かっていかれるということの、お取り次ぎの御用をさして頂くということが、まあ何と有り難いことかと自分で今日は思わせて頂きました、そして、つくづくその思わせて頂いたことはですね、この霊様達が本当にまたこの世に様々な姿、形、言わばそれこそ犬やら猫やらにでも生まれ変わってこんですむように、ね、遺族の者の信心によって、本当なことが分かり、言わば「生きても死んでも天と地はわが住家と思え」とこう仰せられるほどしのことだってね、ね、生きておるだけではない死んだ先でも、地獄も極楽も利国も底の国も天国も、言うならばみんな天地の他に一歩も出るところはない、この天地の中に地獄もあれば極楽もあるんだ、利獄も底の国もあるのだということなんだ、だから生きても死んでも天と地はわが住家なのだ、その住家を住みよくしておかなければいけないということ、ならどのような中にあっても住みよい私達でありたいということがです、そんならば、ね、(?)のような家に住まわして頂いて、三莱の珍味を頂いて、うんならそれぞれ助かったということではないということ、その心が、それを頂かせてもらう心なら、ね、その心が有り難い、言わば歓喜に満ちておる、溢れておるというような、生き方こそがね、私は助かった人の姿であると、そういう姿にあるともう必ず、言うならば物もに、言うならば金も、地位も財産も、風のように伴のうてくるてくるというのが、お道の信心でいうおかげなのだ、ね、そういう例えばおかげをね、私は例えば霊祭を仕えさせて頂いて、え~、本当に、え~まあ今日で言うならば、(?)のお母さんを始め、子供達、それに縁に繋がる皆さん方達大勢お参りになれて、まあ霊様もろぞかしかお喜びであろう、私そんな事はないと思うね、こういう働きになってきたことを喜ばれるんだと私は思うんですね、うん、例えばその縁に繋がる者が皆集まって霊様を、霊祭さしてもらう、拝ましてもらうということが、有り難いのではない、といってそういう働きになってきたということがね、私霊様のお喜びだと思う。
  私今日、あの御神前に、お願いをさして頂いて、私玉串を奉らして頂いた時に、ね、いわゆる、え~、楽の、言わばリズムが、いわゆる末崎楽器を奏でておりますね、あの末崎に合わせて私が玉串を、あの、言うなら調子に乗って玉串を奉らして頂く自分の心が有り難いなぁと思うた瞬間でしたね、あの、お扉にバリバリッとおいさみがかかりました、二回目、あの~、そういう心を神様が喜ばれたということを感じます、ね、それにはねどうでも一つのリズムがいるんです、ね、私共が、信心させて頂いていっつも思わせて頂くことは、天地の中にはそういう素晴らしいリズムが奏で続けられておるんです、それを私共がこの、心の耳で聞かせて頂くということ、そのリズムに乗って生活をさして頂くということ、言わば調子に乗って、例えば、あ~ね、歌謡曲でも、なら例えば浪花節なら浪花節でも、奏でるそのリズム、あれに乗って声が、思い以上の声が、しかもそのリズムに調和した、良い(?)が出るように、私共の生活そのものもです、そういう天地が奏でてくれるリズムを聞き取らせて頂けれる、私は信心がお道の信心だと思います、だからどういう、例えば寒かっても暑かっても、「ああ寒いな」って言うだけじゃなくて、「寒いおかげ」でという、私は喜びが必ず伴のうて行かなければならない、ね、そういう一つのね、え~リズムを今日は感じました、それに皆さんの、言わば今日の、この、お~霊祭が、一つの何かそういうリズムに乗って、皆さんがこうやってお引き寄せを頂かれた、お祭に合われた、そして、え~まあ新たに、金光様の御信心を、を~見たり、言わばまあ聞いたり感じて下さったことになる、ね、私は思います、それは本当なことなのか嘘なのか分かりません、人間が言わば生まれ変わって来るのだというようなことは、もう(?)もつかないことかも知れません、地獄があるの極楽があるのというようなことも、それは世空言ともう言うてしまえばそれまで、けれども私が知り得た、範囲の、言わば霊様の世界、神様の世界、もう私は今日も霊の喜びのお姿を皆さんに、こうお話してさし上げたい、思いですけれどもね、これはも言うならば、あ~、目に見えないことを申し上げても、う~ん、ね、(?)の実感に伴のうてまいりませんけれども、私が霊前でそれこそ感動しなければおられない、声を上げて泣かにゃおられないほどしにです、私も有り難い、ね、本当にこの世で人が助かって色々お取り次ぎさして頂くということではなくて、あの世でこのようにまで霊様が喜んで下さる御用を私はさして頂いてっということが有り難い。
  昨日の霊様のお祭をさせて頂いて終わりましてね、まあ東さんのお母さんが、え~、御主人の(?)祭と同時に、そのお母さん、お母さんになりますね、おばあちゃんのお母さんの、お~丁度式年にもあたっとりましたから御一緒で、「まあ先生あの私の母は、どげな風にしていっとるか」っち、て言うから私は申しました、「あのね、あ~、え~、他のね、沢山な霊様達がおられる、その霊様達からね、うらやましがられて、今日はこの、あの、お祭を受けられましたよ」と言うて申しましたことでした、皆さんのね、沢山な、もうそれこそこの世でもね、もう大変な難儀、苦しみ、というものが、実際の実相の中にありますようにね、霊様の世界はもっとはっきりした世界、それこそまあ少しどうやかあや言うならね、帯をしたいけど帯もない、食べたいけれども食べ物もない、水を飲みたいけれども水も、いや、便所に行きたいけれども便所に行く場もないと、まあ例えば分かりやすく言うならですよ、そういう大変な苦しい、この世でもあるでしょうが、例えば小便でなか(?)なんかは小便に行きたいけれどもいけんのですからね、それこそあの、お~、倉小屋の中に詰まるような大変な財産を持っておっても、一粒のお米が喉を通らないというな病名があるでしょうが、同じことです、ね、そういう例えば苦しみ喘ぎながら、そこに例えば天地の親神様のお許しを頂け、今日のお祭を受けて行く、行くその霊がです、他の霊達からうらやましがられると、ほどしの今日はおかげを頂いておりますよと言うて、まあお話をさして頂いたことでございますけれどね、そしたら「先生、私は今日朝お夢の中にね、ここの共励殿で、あの~皆さんが御直会を頂いておられる、(?)私の前にだけはね、その御善盆にカボチャ、(?)そうにしておるカボチャの増水が出ただけでした」というお知らせを頂いた、だからね私それで申しましたがね、もうカボチャということはあれは馬鹿の(?)のように申しますですね、馬鹿と阿呆とかいう、ですからね、あの、神様はあなたにね、言うならば一つ本気で馬鹿と阿呆になれと、まあ嫁達の問題、人間関係の色んな願いを持っておられるけれども、こちらが大きくなる豊かになる、言うなら馬鹿と阿呆にならして頂いたら、一切が有り難いものになってくるんですよとね、そういうことで本気で一つ魂の清まりを、願われたら有り難いですね、あなたが助かられることが、またならおばあちゃんの助かりに繋がっていくのが金光様の御信心なのですがと言うてお話をしたことですけれども、私共はもうこの世にある内にですね、本気で魂の清まりを願わしてもらい、その精進をしておかなければ、本当に犬やら猫に生まれ変わってくるかも分かりませんよ、これは分かりません私は知らん、仏教のことは、けれども仏教ではそれに、理念をつけて説いておるところを見ますとです、ひょっとするとそうかも知れない、「ホロホロと、ね、泣く(?)の声、父かとぞ思う母かとぞ思う」という、何かえらい(?)の歌ですよね、自分があの道を通っておる向こうの方で、天の声がする、ひょっとするとあれは父の声、父かも知れん、母の生まれ変わりかも知れないとこう思うたというのですよ、ね、ですから私共がね、また、また、この世に出てくる人間で生まれてくるならまだよいけれど、ね、それこそ、お~、お~、繰り返し繰り返し、嫌なものにも、人間にここへ生まれてきた、人間として生をここにこの世で受けてきたということがもう、一番のおかげ、そこでその、ここでそのチャンスを逃してはならない、この世で本当に魂の清まりを本気で願わして頂いて、あの世で、いわゆる永劫、例えばそれ一番、なら、あ~、(?)下さったのは教祖の神様だと思う、今朝からの御理解の中にも、ね、「形がのうなったらきてくれというところに行ってやる」と仰せられる金光大神の、霊様のようにです、私共が亡くならして頂いて、魂の清まりが出けて、ね、そこが助けられるほどしの力を頂かせてもろうて、いわゆる可愛い子供やら孫達のところにでも、行って働きが出来るほどしのね、霊の力を頂かしてもらうのは、霊になってからでは遅い、この世で私共が本気でおかげを頂いて、本気での私は魂の清まりを願わして祝う、言うならば、真の信心をさして頂いて、おかげを頂いていかなければならないということをね。
  今日は、その仏教の、ん~、いわゆる輪廻説までというようなものを考え合わせてです、はぁ~もう本気でこの世で助かっておかなければならないなということ、ならこの世で助かるということは金が儲かった地位が出けたということではない、その心が何時も喜びに満ちておるということ、暑かっても寒かっても、その中に、ね、心の底から喜びが湧いてくるという道があるんだ、そういう道に縁を頂くのであるから、私はそういう意味合いでのことが、もしね(             ?              )御参拝頂いた皆さんの中にでも、そのことがもし、ね、今日おこしてから、思いますとここのごしっ、神様に御縁のあるお方ばぁっかりなのですよやはり、ね、ですからそういうものを縁としてです、うんなら(?)一つ、本当に味なものにして行かれる、おかげを頂かにゃいかない、ね、それが今日の言うならば御直会ともなるならば、ね、それこそ霊様の、ん~喜びは勿論のこと、自分の霊祭を境に、そういうことならして頂かれることがです、神様のまた願いでもあろうかと思わせて頂く。
  先ほど私御取り次ぎをさして頂く、後ろへおられる方は、福岡の桜井先生ていう、お道の教師の方なんですけれども、まあ他の教会で御用を受けられておられて、もう十年あまりここでおかげを受けております、それに今朝から御夢を頂かれましてですね、まあこういうことを頂いておられますです、「合楽の願いは神の願い」と三代金光様がお知らせ下さった、「合楽の願いは神の願い」と、今私がここで(師匠?)をしておる、私が今唱えておる、私が皆さんにどうでもおかげを頂いて下さいと言うておること、それをね私共が「本当におかげを頂くということは、私共の心が和らぎ賀ぶ心になること、いわゆる和賀心、その和賀心がこういうおかげが受けられるんだという一つの見本をここで作って、それを世界の市場に出して、世界中の人間がです、幸福の根本になるのはここだと分からして頂けれるほどしのおかげを皆さん頂いて下さいよ」と、言うておることなんです、私が言うておることはそのまま天地の親神様の願いである、金光大神の願いであるといったようなことを頂いておられるのを聞かせて頂いて、いよいよ私が言うておることは間違いがないと改めて確信を持つのでございます。
  どうぞ一つ、まあ今日の霊様の、御縁に繋がられる皆さん、それがどうぞ、お~、ただあの、え~今日の霊様に合わして頂いたというだけではなくてです、本当に、本気でこれは魂の清まりというようなことに、あの、開眼をすると言うですかね、いうやはり気持ちが、それでいて私は別に悪い事はしない、私は一つも別に人から恨まれるようなこともしない、ということに違いはありませんが、皆さんが決して悪人とも思いません、うんけれども、神様からご覧になったら、私はもっともっともっと、おかげを頂かなければ、(?)(?)お互いあるような、腹が立つではないか、おしい欲しいがあるではないか、ね、ね、本当は喜ばねばならんほどしのおかげを頂きながら、そこに喜びも何にも感じられないではないか、とするならばまだまだ魂は清まっとらん証拠と、一つ思うてみて、おかげを頂かれたら、有り難いことだと思いますね。
                                                                        どうぞ。




入力者:誠輝